珍連載コラム8. 「広島にシントラーのリストが流れた日」


北朝鮮による日本人拉致の報道に接すると、どうしても他人事とは思えません。
私の古いパスポートには、今は無くなってしまった国のスタンプが二つ押されています。
東ドイツとチェコスロバキアです。
今から十五年以上も前、私は大学の卒業をひかえ、ユーレイルパスを握ってヨーロッパを二カ月ばかり歩いたことがあり、ユーレイルパスが使えるのは西側の国だけだったので、デンマークでベルリン、プラハを経由してウイーンに行く切符を別に買い、一週間くらいかけて体制の違う国を歩いたのです。
 
デンマークから東ドイツに向かう船の中では、列車の客車ごと船に積み込まれ、五時間程の船旅の間ずっと行進曲が流れ、東ドイツの市民は船の中の免税店でアメリカの煙草とイギリスのスコッチに群がっていたものでした。
東ベルリンから西ベルリンに入るときは、列車のコンパートメントに三人の警官が入ってきて一人が乗客に銃を突きつける中を他の警官が座席を外し、天井を開き、人が隠れていないことを確認して周っていました。今ではがらんとした、何の変哲もない駅になっているベルリンのフリードリッヒ駅が、その頃は東西ベルリンの境で、検問所の前で抱き合って別れを惜しむ人たちでひしめいていたものでした。

そうしてたどり着いたプラハで、一人の不思議な若者を見かけました。当時の東欧では珍しい東洋人なのですが、どうも日本人ではなく、彼に興味を抱いた私は、思い切って声をかけてみたのでした。どこから来たのですか、という英語の問いかけに、彼は迷惑そうに一言「North Korea」と答えました。
何を聞いても返事はないと確信させる、強く冷たい意志をその声に感じました。

彼は、北朝鮮からの留学生だったのでしょう。
その次の年、ベルリンの壁は崩れ、ほどなくして東欧全土に民主化の波が押し寄せます。
北朝鮮から東欧に派遣されていた留学生達は、その時全員連れ戻されたと聞きます。
そして、全員殺された、とも聞きます。
 
私は、あの時声をかけた若者に、生きていてほしい、と願っている。どんな形でもいいから。
そして、自分がそうやって欧州をうろうろしていたほんの五年前に、有本恵子さんがデンマークから拉致された、という事実に、自分が拉致されていても不思議ではなかった、と思っています。その頃欧州を歩いていた全ての日本人の若者には、拉致被害者となる可能性があったのです。二年前のある日、広島市の商店街を歩いていると、アーケードに繰り返し同じ音楽ばかり流れていることに気が付きました。

何度目かのその映画「シントラーのリスト」の音楽を聴きながら、どうしてだろうと思っていました。商店街だから、ふだんは明るい曲が流れているものなのです。不意に、その前日、横田めぐみさんの死亡が北朝鮮政府から発表されたことを思い出し、涙を止めることができませんでした。

横田めぐみさんは、父親の転勤で新潟市に移るまでは、数年間を広島市で過ごしたのです。
東京都港区芝の路上、もう十年近くも前の初夏の夕暮れ、東京で勤めていた頃です。