珍連載コラム5. 「預言、或いは宮本常一との熱き日々」



何気なくテレビをみていると、衛星放送だったと思います、
ベルリン・フィルの夏の野外コンサートの中継が始まりました。
指揮者は日系アメリカ人のケント・ナガノで、どんな曲をやるのだろう、と思っているとオーケストラの後ろに巨大な和太鼓が映り、独奏者として鼓童出身の和太鼓奏者の林英哲さんが登場したので驚き、松下功作曲の和太鼓協奏曲「飛天」の壮大な演奏は、ベルリンの聴衆にも好意をもって迎えられた様子でした。

ところが更に驚かされたのは、それから何年か経たごく最近、中国新聞の大島支局長である佐田尾信作さんが執筆された「宮本常一という世界」(みずのわ出版刊)を読んだ時です。
大島郡久賀町で宮本常一の調査を手伝った、地元で印刷業を営む中村信義氏のインタビューで、宮本常一のこのような言葉が紹介されます。
「小木(佐渡島)の鬼太鼓座(鼓童の前身)では、東京とか、よそから来たもんが一生懸命になっちょる。将来、ボストンの交響楽団に行くようなもんになるぞ」

ボストンの交響楽団、というのは小澤征爾を意識したのでしょうが、それから二十余年、ベルリン・フィルという世界の音楽の頂点にある楽団が、和太鼓を認めたのです。
宮本常一は、自らが創設に携わり、文字通り心血を注いできた鬼太鼓座の和太鼓が、世界の音楽の最高の舞台でも充分に通用することがわかっていただと、思います。

ところで、好きな作家の随筆を読んでいてがっかりするのは、歳を重ねると愚痴が増えてくることで、これ以上この国がだめになっていくのを見たくないから、早く死んでしまいたい、なぞと書かれた文章を読んでいると、こちらまで嫌になってしまいます。

もちろん、宮本常一も、晩年の日本に満足はしていなかった。
どうしてこのような国になってしまったのだろう、と暗澹たる思いで全国を回っていた。そして、最晩年の仕事として宮本常一が取り組んだのは、郷里の周防大島に帰り、若者の自主運営による「郷土大学」を設立することでした。
自分達の住んでいる場所を理解し、より良い郷土をつくっていこう、という想いで始められたこの郷土大学でしたが、宮本常一の八回の講義の後、その死によって間もなく事実上の解散状態となります。

それから、二十余年の歳月が過ぎ、短い間でしたが郷土大学で学んだ若者たちの心から、宮本常一の灯は消えませんでした。
宮本常一の命日は一月三十日、水仙の花の盛りなので水仙忌と呼ばれ、二十余年間欠かさず法要が続けられ、 五月に開館する宮本記念館も、郷土大学で学んだ人たちの働きで設立にこぎつけました
郷土大学も、昨年から「周防大島郷土大学」という名前で再開され、二十余年間、想いを持続された方々のことを考えると、私にも熱いものが満ちてきます。

最近復刻された宮本常一の追悼文集「同時代の証言」(マツノ書店刊)を読み、付記である葬儀記録の最後、葬儀委員名簿の雑務の欄に林英哲の名前を見つけ、 ここにも熱い想いを持続させている人がおり、そして、 佐渡の鼓童のけいこ場には宮本常一からの最後の手紙が、額装されて今も掲げられています。