珍連載コラム3. 「エディンバラの陽気なマクベス夫人


ご当地もの、というのは、迷信のようなものかもしれません。
純粋批評の観点からいえば、本当に優れたものならばどこで観ようが聴こうが変わりはないはずです。それでも、私には十数年前からの夢がありました。スコットランドでシェイクスピアの「マクベス」を観ることと、パリでマルセル・カルネ監督の映画「天井桟敷の人々」を観ることです。

後者の方は、実は、パリにはトロカデロ近くに毎週日曜日の夜に「天井桟敷の人々」を上映するためだけに存在する映画館があります。ところが、私は日曜日の夜にパリに滞在したことがないので、未だにその夢を果たせずにいます。

話はそれますが、例えば東京で小津安二郎監督の「東京物語」を上映するためだけの映画館というものが成立できるでしょうか。彼我の文化の層の厚さのみならず、さまざまな事を考えさせられる対比だと思います。

それはさておき、前者の方は以外にあっさりと夢がかない、数年前、エディンバラで「マクベス」の鮮烈な舞台を観ることができたのです。もっとも、台詞はすべてイタリア語で、ジュゼッペ・ヴェルディ作曲の歌劇の「マクベス」だったからです。
演出はスイス出身のリュック・ボンディで、冒頭に登場する三人の魔女が、街娼の格好で出てきます。「マクベス」を、人間の欲望による悲劇としてとらえ、自らの欲望と向き合うことを観客一人ひとりに突きつけた、極めて刺激的で、考えさせられえる演出でしたね。

しかし、何か不完全燃焼でした。その理由は、・・・と考えた時に「やはり音楽だなあ」と、ため息をつきました。

アリアの度にマクベス夫人が、マクベスが声を張り上げる、コテコテのイタオペ(イタリア・オペラの日本的な呼称)の「マクベス」が、どうも私の心にあるスコットランドの暗い森の「マクベス」とかみあわないのです。
ヴェルディの歌劇には、やはりシェイクスピア悲劇の「リア王」や、こちらは喜劇ですが「ウインザーの陽気な女房たち」の登場人物を主役にした「ファルスタッフ」があり、相当シェイクスピアに入れ込んでいたことが伺えます。しかし、東洋の片隅の門外漢に言われたくはないだろうけど、どうもヴェルディの音楽に私の思い描くシェイクスピア悲劇の情念は似合いそうになく、仕方がないので、帰国後溜飲を下げることにしたものでした。
 
さて、件のヴェルディ作曲の歌劇「マクベス」ですが、この五月に東京の新国立劇場で野田秀樹の歌劇初演出となるこの上演には、今から期待が高まりますが、「新選組!」で初のテレビドラマ出演(勝海舟役)など、何かと活動の幅を広げる野田秀樹、・・・というよりよほど金が要ることがあるのかなあ、という気もするのですが・・・。
 
ところで、不完全燃焼のまま帰国した私のしたこととは・・・、レンタルビデオ店で黒澤明監督の「蜘蛛巣城」を借りることでした。「リア王」を翻案した「乱」のように、「マクベス」を日本の戦国時代に翻案したこの作品で、情念を求める私の心の渇きは癒されたのでありました。
うん、シェイクスピアは黒澤に限る。

 追記
「蜘蛛巣城」の終盤、マクベス破滅の下りに、マクベス役に擬せられた三船敏郎の顔の真横にものすごい勢いで数本の矢が立つ場面があり、どうやって撮影したのかずっと不思議に思っていたのですが、最近になってその秘密を知りました。
答えは、
「弓の名人を連れてきて本当に撃たせた」 だそうです。
黒澤、おそるべし。